憲法ができた

1947年5月3日憲法ができた。
 象徴天皇、主権在民、自由平等、民主主義、戦争放棄、三権分立。どれも国民にはよくわからないことだった。なにしろ戦場へ出征する息子に思わず「死ぬんじゃないよ、生きて帰ってこいよ〜」と叫んだ母親を「なんてことを言うんだ、ばかもの。命はお国に捧げるものだ」と足蹴にして怪我をさせる憲兵がいた。戦場では「玉砕だー」と言われ突撃をして、それでもやっとの思いで隊に戻ってくると「ばかもの、死なんでどうする。もう一度いってこい」とどなられる時代だった。
 夢のような憲法だった。もう戦争はしないんだ。男女は平等なんだ。だれでも選挙ができるんだ。よちよち歩きの民主主義はこうしてスタートした。

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 なぜこうした憲法をGHQが進めたのか。ひとつは日本が再び国力をつけて、アメリカなどに対立する勢力とならないように弱体化させるのが占領政策の大きな目的でした。独裁政権をつくらせないこと、軍隊をもたせないこと。GHQは財閥解体、軍需産業解体、金融解体、農地解放などをすすめ、一部が大きな力を持たないように権力の分散化を進めた。

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by yumehonclub | 2016-01-15 17:18 | Comments(0)

1945年
6月23日 沖縄の日本軍敗北。県民を巻き込んだ組織的戦闘が終わる。日本側犠牲者は18〜20万人ともいわれる。
8月6日 広島に原爆投下、11月までに17万人死亡、5年後には24万7000人が死亡した。
8月8日 ソ連参戦、満州、朝鮮、樺太に侵攻。
8月9日 長崎に原爆、12月までに8万人死亡。
8月10日 御前会議で国体護持(天皇制)を条件にポツダム宣言受諾を決定、海外に通知。
8月14日 ポツダム宣言無条件受諾を決定。
8月15日 ラジオで終戦を発表。
8月18日 満州国消滅。
8月22日 ソ連潜水艦、引揚船を攻撃。
8月23日 スターリンが日本人50万人のシベリア抑留を指令。
8月30日 連合軍最高司令官マッカーサー厚木に到着。
9月2日 東京湾戦艦ミズーリ号で降伏文書に署名。米・英・ソ連・中国・オーストラリア・カナダ・フランス・オランダ・ニュージーランドが署名。
9月6日 連合軍海軍司令部が慶應義塾大学日吉校舎を接収。
9月9日 南京で日本軍降伏。
9月15日 日比谷の第一生命ビルにGHQ(連合軍総司令部)本部ができる。
9月27日 天皇がマッカーサーを訪問。

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 間違いなく日本の歴史の中で最も悲惨な時代だった。海外に展開していた日本人は気がついたら周りはすべて敵、日本に帰るに帰れず、またやっと帰っても食糧さえないありさまだった。
 こんな中でGHQ占領軍の指示の下、いわゆる平和憲法ができる。その流れを追ってみよう。

10月4日 GHQは政治犯の釈放、特高警察の廃止、言論、集会などの自由制限する法律の廃止を指示。東久邇内閣はそれはできないとして総辞職。次の幣原内閣が治安維持法など15の法律・法令を廃止、政治犯3000人を釈放した。
10月11日 マッカーサーは憲法改正に言及。
10月25日 幣原内閣は憲法問題調査委員会を設置。

1946年
2月8日 委員会は憲法改正要項をGHQに提出。この間民間有識者たちによっても草案が発表されている。また各政党も草案を出している。自由党と進歩党は明治憲法に近く、共産党は天皇制廃止、社会党は国民生存権などを唱えた。
2月13日 GHQは提出した憲法改正要項を拒否。代わりにGHQ草案が渡された。
2月22日 閣議でGHQ草案に沿って憲法改正すべく、政府案の作成に入った。
3月2日 試案提出。3月5日確定、6日憲法改正草案要綱として発表。
米国政府や極東委員会は拙速として懸念を示したが、マッカーサーは支持。
6月8日 憲法改正草案は吉田内閣の下、枢密院本会議で可決された。
8月24日 新選挙法で選ばれた衆議院本会議で帝国憲法改正案は、賛成421、反対8で可決、10月6日貴族院で可決、GHQの要請で部分修正をした後、再び衆議院で可決。
10月29日 再び枢密院で可決、天皇の裁可を経て11月3日に公布。

1947年
5月3日 日本国憲法施行。

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by yumehonclub | 2016-01-14 13:56 | Comments(0)