谷中の五重塔

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天王寺の五重塔は1644年(江戸前期)に建てられた。1772(明和9)年の大火で焼失、1791(寛政3)年に再建された。高さ34メートルを超える塔は関東一の高さだった。
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1891(明治24)年から2年間、幸田露伴はこの五重塔を見ていた。幸田露伴の住まいは谷中墓地の脇にあった。五重塔再建の職人の物語はここから生まれた。
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1957(昭和32)年7月6日早朝、燃え上がり柱のみ残して全焼した。焼け跡には男女の遺体があった。男女は道ならぬ恋の清算を図るために焼身自殺を選んだのだ。
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五重塔周辺は春になると人々が桜を見にやってくる。ビニールシートを敷いてお花見をする人も多かった。江戸の名所図でも境内(このあたりは墓地ではなかった)で花見をする人たちが描かれている。
だが昨年あたりから墓地内での飲食お断りの掲示がされるようになった。ゴミ箱もなくなった。焼き芋の移動販売車も来なくなった。
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# by yumehonclub | 2016-04-06 14:53 | Comments(0)


 石川啄木は1886(明治19)年岩手県盛岡に生まれた。盛岡中学時代に金田一京助と知り合う。与謝野鉄幹の『明星』の短歌に傾倒。与謝野夫妻をたずねるが、東京での就職ならず帰郷、結婚、父母妹と同居。代用教員として生活をはじめた。
 文学の夢捨てがたく、1907(明治40)年には北海道函館で勤務、家族は親類に預けた。その後札幌で新聞社の校正係や小樽や釧路の新聞記者などを転々とした。
 1908(明治41)年東京に出て、与謝野鉄幹に連れられ森鴎外宅での観潮楼歌会に出席。1909年(明治42年)編集長だった盛岡中学の先輩佐藤北江の好意で東京朝日新聞の校正係となる。

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        新聞社からの夜の帰り道、湯島の切通坂、この道を歩いたという

 金田一は下宿の世話など経済的援助を惜しまず与えている。生活が厳しかったのは事実だが、啄木はときに浅草などの女との遊興に費やしていたという。借金のことを記録に残しているが、合計すると63人から総額1372円50銭借りた。今の金額にすると1000万円を超えるといわれている。
 1910(明治43)年天皇暗殺計画いわゆる大逆事件が起きた。幸徳秋水らが有罪死刑になったが、啄木はこの事件にでっち上げのにおいを感じていた。
 東京朝日新聞は「朝日歌壇」をスタート、啄木は短歌の選者になった。『一握の砂』出版。

 東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる

 たはむれに母を背負いて
 そのあまり軽きに泣きて
 三歩あゆまず

 はたらけど
 はたらけど猶わが生活楽にならざり
 ぢっと手を見る

 ふるさとの訛なつかし
 停車場の人ごみの中に
 そを聴きにゆく
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 かにかくに渋民村は恋しかり
 おもいでの山
 おもいでの川

 石をもて追わるるごとく
 ふるさとを出でしかなしみ
 消ゆる時なし

 やはらかに柳あをめる
 北上の岸辺目に見ゆ
 泣けとごとくに

 ふるさとの山にむかひて
 言ふことなし
 ふるさとの山はありがたきかな
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 この時代医学は結核には無力だった。1912(明治45)年小石川区久堅町で肺結核のため死去、26歳。第2歌集『悲しき玩具』は2カ月後に出版された。翌年妻節子も肺結核で死去、27歳。

 呼吸すれば、
 胸の中にて啜る音あり。
 凩よりもさびしきその音!

 結核の特効薬ストレプトマイシンができたのは、34年後、1946年のことだ。

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# by yumehonclub | 2016-03-16 10:36 | 明治 | Comments(0)

漱石のこと

c0326000_17543680.jpg漱石は1867(慶応3)年、江戸牛込の大名主の5男として生まれた。間もなく里子に出され、一度戻されるが再び里子に、そこも養父母の不仲から生家に戻ったのは9歳、生家の夏目姓を名乗るのは21歳になってからだ。

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東大に近い「ねこの家」この家で「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」を書いた。その10年前には森鴎外が住んでいた。
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学業成績は優秀で二松學舍、成立學舎で英語を学び、大学予備門予科、帝国大学文科大学英文科入学、やがて特待生となる。卒業後は高等師範学校の教師、愛媛松山中学の教師をしている。このとき校長より高い給金をもらっていたという。一方では近親者の死が続いたこともあって厭世主義・神経衰弱に襲われるようになった。学生時代には正岡子規と知り合い交流を深めた。「漱石」とは子規からもらった名だ。子規は一緒に食べに行くとよく支払いはよろしくと漱石に出させることもあったが、漱石は気にしなかったという。人を寄せ付ける親分肌と神経衰弱・胃潰瘍とを両方もっていた。 
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1886(明治19)年結婚するが妻鏡子が自殺を図るなど順調ではなかった。長女が1歳のとき英語教育法研究のためイギリス留学、神経衰弱がすすみ2年半で呼び戻される。帰国後は東京帝国大学と第一高校の講師となった。

1905(明治38)年1月『吾輩は猫である』を高浜虚子の主宰していた雑誌ホトトギスに発表。『倫敦塔』『坊っちゃん』などと続いた。

漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉・森田草平・寺田寅彦・阿部次郎・安倍能成、さらに芥川龍之介や久米正雄、内田百閒・野上弥生子など多くの文人が集まるようになっていった。家は広いが対応が大変と日にちを決め「木曜会」と名付けた。
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 文人たちが毎週のように集まり、お互いに刺激しあい、それぞれわれこそは漱石の門人であり弟子であると自負していた。
1907(明治40)年、教職を離れ朝日新聞社に入社、文筆活動に専念した。このときの給料は、のちの啄木の入社時と比べると数倍高いものだったという。
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漱石の死後、建て替えられた家はまるで料亭のようだといわれるほど大きく立派なものだったそうですが、太平洋戦争の空襲で焼け落ちてしまいました。新宿区は生誕150年を記念して漱石記念館を建設。漱石山房の復元と諸資料の収集公開をめざしている。

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# by yumehonclub | 2016-03-09 18:13 | Comments(0)

樋口一葉の涙

小気味よいリズムとシーン転換の滑らかさ、細やかな衣装や情景の描写、いちいち心理説明はしないけれども、心の襞が垣間見える会話。若くして父と財産を失くして、一家を支えることになった樋口一葉。生活苦と病気と闘いながら誰もやったことのない執筆をすすめた。ときに現代の清少納言だ紫式部だと持ち上げられ、いやただの目立ちたがり屋の貧乏人だと蔑まれながら、わずか24歳の生涯を駆け抜けた。
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一葉が小間物屋をしていた当時の町並みを再現した模型や一葉の旧宅を詳細に再現している。あたかも一葉がせっせと働いている様子が想像される。
水道もガスもない時代、炊事・洗濯ですら大仕事だった。質屋通いをしながら小説を書いた。書き直し、また書いた。
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一葉は方正な人だった。自らに厳しくきちんとする人だった。着物は洗い張りして縫い直して着た。

 寝ざめせしよはの枕に音たてて なみだもよほす初時雨かな
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稀有な才能も貧乏と結核には勝てなかった。
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一葉の葬式には質屋からの香典が届いたという。
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お金には苦労した一葉がのちに5000円札の肖像になるとは哀しい皮肉である。

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# by yumehonclub | 2016-03-07 16:44 | Comments(0)

正岡子規の根岸

正岡子規は1867(慶応3)年、愛媛県松山で生まれた。16歳で上京、17歳で東京帝国大学予備門入学。夏目漱石、芳賀矢一、南方熊楠、山田美妙らと同期。このころ短歌や俳句を学び、ベースボールに熱中。
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          春風やまりを投げたき草の原

22歳、俳句の分類研究(古今の俳句を再評価、価値の認められないものを月並み俳句と称した)、子規(ホトトギス)と号した。結核で喀血する様をホトトギスになぞらえた。河東碧梧桐、高浜虚子らと交流。東大に入るも25歳で退学。日本新聞社に入り、母、妹と根岸で暮らした(子規庵)。
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28歳で日清戦争従軍記者として遼東半島に森鴎外を訪ねる。帰国船中で喀血、入院、その後松山の漱石の下宿で過ごす。地元の人たちと連日句会を開いたという。子規庵に戻り、漱石、鴎外らとともに句会を開いた。やがて、歌人伊藤左千夫・長塚節・岡麓らと歌会を開くようになった。1900(明治33)年暮れに病状悪化のため句会、歌会は中止、子規は「病牀六尺」の連載を始める。9月10日最後の句会が開かれ、19日没。34歳。子規は生涯で23,647句作ったという。
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子規が好んで通ったという団子屋、豆腐料理屋にも句碑が建って今でも大事にされている様子がわかる。

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# by yumehonclub | 2016-02-26 17:45 | Comments(0)