2023年 11月 28日
薔薇の少女
バラ園の真ん中に大きな少女の人形がありました。メルヘンのような佇まいに子供たちが見ていると、ちょこっと指が動いて子供たちが驚きます。今動いたよ。そんなわけないだろ。今度は目が動きます。ほらほら、動いた。少女は実は何やらパフォーマンスをしているらしい。全体は微動だにせず、不思議に見ていると、ふっと指の形が変わっている。もしかして薔薇の精かも。
2019年 04月 08日
花に誘われて
春なんですね。
2018年 09月 07日
広重の墓 東岳寺
2018年 08月 21日
こんな身近に隅田川収容所 東京俘虜収容所
広い鉄道操車場の片隅にある日通の倉庫。そこは太平洋戦争の一時期、香港などで捕虜となった英・米・カナダ・オランダ兵などの収容所だった。鉄道貨物と舟運の重労働の荷役作業を課され、反抗すれば厳しい罰が与えられた。激しい怒鳴り声や悲鳴が時折外にも聞こえたという。比較的優しい収容所長もいたが、わずか2ヶ月で交代させられたという。やがて空襲が激しくなり、操車場は恰好の標的。いつ捕虜たちも巻き込まれるかと怯えていたという。
ところがある日を境に、捕虜たちの態度がより反抗的になった。日本は負けたという噂が流れた。彼らはラジオを作って聞いていたのだ。米軍機が超低空で偵察に来た。捕虜たちは大喜びで手を振った。こうなると今度怯えるのは日本人だった。
捕虜たちは着る物も十分与えられず、2段または3段ベッドにわら布団で寝ていた。食べ物を荷物から盗めば棒で激しく殴られた。
解放後は逆に憲兵が取り囲まれ、捕虜たちから激しく殴られ蹴られた。
隅田川収容所(東京俘虜収容所第10分所)は南千住にあった。収容所での死者は2名。終戦時の収容者は256名という。裁判では8人が裁かれ、捕虜の死に関係したとして所長が死刑、他は重労働5〜30年だった。虐待が主な理由だった。(笹本妙子氏レポートより)
2018年 08月 20日
日暮里撮影所・向島撮影所
ビルが建つとそれまで見えていた富士山が見えなくなるということで、景観保護運動が起きた日暮里の富士見坂。かつてこの近くに最古の映画会社である福宝堂日暮里撮影所がありました(1910年)。その後東洋商会東京日暮里撮影所となり、白黒無声映画を世に出した。やがて天然色活動写真日暮里撮影所と名を変え、1919年まで多数の映画製作をしたという。
日活(日本活動写真フィルム株式会社)が1913(大正2)年隅田川のほとりに向島撮影所を作った。自然光を利用するためガラス張りの900㎡のスタジオだった。