正岡子規の根岸

正岡子規は1867(慶応3)年、愛媛県松山で生まれた。16歳で上京、17歳で東京帝国大学予備門入学。夏目漱石、芳賀矢一、南方熊楠、山田美妙らと同期。このころ短歌や俳句を学び、ベースボールに熱中。
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          春風やまりを投げたき草の原

22歳、俳句の分類研究(古今の俳句を再評価、価値の認められないものを月並み俳句と称した)、子規(ホトトギス)と号した。結核で喀血する様をホトトギスになぞらえた。河東碧梧桐、高浜虚子らと交流。東大に入るも25歳で退学。日本新聞社に入り、母、妹と根岸で暮らした(子規庵)。
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28歳で日清戦争従軍記者として遼東半島に森鴎外を訪ねる。帰国船中で喀血、入院、その後松山の漱石の下宿で過ごす。地元の人たちと連日句会を開いたという。子規庵に戻り、漱石、鴎外らとともに句会を開いた。やがて、歌人伊藤左千夫・長塚節・岡麓らと歌会を開くようになった。1900(明治33)年暮れに病状悪化のため句会、歌会は中止、子規は「病牀六尺」の連載を始める。9月10日最後の句会が開かれ、19日没。34歳。子規は生涯で23,647句作ったという。
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子規が好んで通ったという団子屋、豆腐料理屋にも句碑が建って今でも大事にされている様子がわかる。

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by yumehonclub | 2016-02-26 17:45 | Comments(0)

1892(明治25)年、東京都中央区明石町生まれ。11歳の時、母が亡くなり叔父の芥川家の養子になった。1910(明治43)年に第一高等学校入学、久米正雄、松岡讓、佐野文夫、菊池寛、井川恭(後の恒藤恭)、土屋文明、渋沢秀雄らがいた。1913(大正2)年、東京帝国大学進学、菊池寛・久米正雄らと「新思潮」刊行。「羅生門」「鼻」などを発表。夏目漱石を師とあおぐ。卒後は海軍機関学校で英語教師、1919(大正8)年、大阪毎日新聞社に入社(出社でなく寄稿)。1918(大正7)年の秋結婚。1925(大正14)年頃から文化学院文学部講師、1920(大正9)年、長男芥川比呂志、1925(大正14)年、三男芥川也寸志、誕生。芥川龍之介が北区田端に住んでいたのは、1914(大正3)年から1927(昭和2)年。1923(大正12)年9月1日に関東大震災が発生。地震と火災による大被害が発生、川端康成と遺体を見て歩いたという。1927(昭和2)年「続西方の人」を書き上げた後、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。
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もらわれっ子、失恋、女性関係、子育ての干渉、神経衰弱、下痢、100人の作家を集めて『近代日本文芸読本』をつくれば作家たちから一人だけ儲けて書斎を新築したと噂され、姉の家のボヤ騒ぎが起これば、保険金目当ての放火だと疑われた姉の夫は鉄道自殺、借金の処理が残された。さらに「私の子、あなたに似ていない?」若き日の出来事が追い打ちをかける。

「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」それが理由だった・・。

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by yumehonclub | 2016-02-24 16:00 | Comments(0)