歌舞伎のルーツは「かぶき踊り」だといわれる。慶長年間1600年頃のことである。出雲阿国の一座が踊ったのが評判になった。各地の芸能グループにも影響を与え、やがて遊女たちが取り入れ女歌舞伎、少年役者は若衆歌舞伎として、三味線などを加えて大いに流行った。武士たちの間でいわばアイドルの取り合いなどもめごとが多く、幕府により禁止されたが完全になくなることはなかった。男ばかりの野郎歌舞伎ではいわゆる女方も登場した。演ずるものもだんだん物語性豊かになってきた。
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      出雲阿国の墓、今も多くの演劇人、芸能人が訪れる

 元禄1690年頃になると、歌舞伎はすでに演劇として完成していた。もともと大坂・京都を中心に栄えていた歌舞伎だが、江戸にも四座(中村座・市村座・森田座・山村座)が芝居小屋として認められた。役者と大奥御年寄が通じていたとして山村座はとり潰されたが(江島生島事件)、逆に人気のほどが想像される。大坂・京都では恋の心理などを描いた和事が、江戸では大立ち回りや見得の荒事が人気だった。
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 江戸歌舞伎発祥の地とある。銀座、京橋、木挽町 このあたりに芝居小屋があった

 享保1720年頃には、客席には屋根がおおわれ、舞台は回り舞台、花道、せり上がりなどができるようになった。ずっとダイナミックな演出ができるようになった。「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」は人形浄瑠璃からの義太夫狂言の名作といわれる。
 文化・文政1800年頃になると「娘道成寺」「勧進帳」「四谷怪談」「白浪五人男」などたくさんのヒット作が演じられた。
 明治22年1889年、歌舞伎座が誕生。開国の荒波と封建制の狭間で、新歌舞伎を模索。「悪源太」「修善寺物語」「元禄忠臣蔵」などを展開した。
 昭和の軍国時代には制限が多く、人々に演劇を楽しむ余裕もなくなっていった。元気を取り戻すのは1970年以降である。様式美を伝える伝統派とスーパー歌舞伎と大胆に新しいことに挑戦する二つの輪がうまく回転し隆盛を迎えている。
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  新しくなった歌舞伎座
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by yumehonclub | 2015-11-04 15:56 | Comments(0)