2015年 08月 17日
虐殺 日本側が被害者に
通州事件、1937(昭和12)年7月29日に中国の通州において中国人部隊が日本軍及び居留民を襲撃し大量虐殺した事件。日本軍は壊滅し日本人居留民のうち女性はほとんど強姦され殺された。
本土空襲。太平洋戦争末期、アメリカ軍とイギリス軍が日本各都市に対して行った空襲、戦略爆撃。特に1944(昭和19)年末頃から熾烈となり、最終的には無差別爆撃(絨毯爆撃)として行われた。東京100回以上、10万人以上の死者。逃げ場を作らせない攻撃で大虐殺であった。名古屋1万人など、日本中の都市は軒並み空襲にさらされた。焼夷弾という油火災は街をことごとく焼き尽くした。
そして広島、長崎の原爆投下、という大虐殺。1945(昭和20)年8月6日、広島にいた人たち14万人が焼き殺された。8月9日長崎は7万6千人が消えた。
葛根廟事件は、1945(昭和20)年8月14日、満州国興安総省の葛根廟において日本人避難民約千数百人(9割以上が婦女子)がソ連軍および中国人によって攻撃され、1,000名以上が虐殺された事件。避難の途中、ソ連の戦車部隊に遭遇、多くが轢き殺され、殺害され、さらに現地の中国人には衣服や子供を奪われたという。
シベリア抑留、終戦後武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソ連によっておもにシベリアに労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と強制労働により多数の人的被害を生じた。100万人以上が抑留され、年月を経て47万人が帰国、長い人は11年後に帰国したが、多くは故国を踏むことができなかった。
いまも世界各地で戦争が起きています。少女の頃突然武装グループに誘拐されて兵士の妻にされ、子供を3人産んだが子供は死んだり、行方不明になったり、兵士になったりしてどこにいるのかわからない。アフリカのある難民収容所にいるまだあどけない表情の残る女性がインタビューに答えていました。隣り合う国に大国がそれぞれ援助しています。代理戦争は終わりません。
2015年 08月 17日
なぜ戦争に反対するのか
虐殺といわれる事件がたくさん起きています。その多くが当事者が死亡、あるは黙して語らず、闇の中に葬られかけています。詳しいことはわかりませんが、たしかにあったことは否定のしようがありません。
ベトナム戦争の時、ソンミ村事件というのがありました。村民全員をアメリカ軍が殺してしまったという事件です。アメリカ軍にはその村にいるのが善良な村人なのか敵なのかわかりません。その結果、赤ちゃんも妊婦も子供も皆殺しにしてしまったのです。死者500人、生存者3人といわれています。
ポルポトの虐殺も信じられないものでした。カンボジアでポルポトの軍隊が首都制圧に成功すると、都市の廃止、教育の廃止、家族の廃止、科学の否定を唱え、原始共産制度のもと、全員を地方での農作業などに仕向け、反抗する者、役立たない者、病人、知識人は次々殺害していきました。100万人以上が亡くなりましたが、被害者の数さえよくわかりません。
ナチスのホロコーストは、ユダヤ人の中で生産活動にとって無価値な老人・女子・子供は移送の後に殺害し、労働に耐える者はなるべく過酷な労働環境で軍需産業に従事させ、死亡させるという方針でした。犠牲者は400万〜500万人ともいわれています。
⚫️ 日本が関係した主な虐殺事件を列挙してみます。
イワノフカ事件、1919(大正8)年3月、ロシア革命に干渉するためシベリア出兵中の日本軍が、アムール州イワノフカ村において女性や子供ら、1歳半の乳飲み子から96歳の老人まで含む257人を銃などで殺害、36人を小屋に閉じ込め焼き殺したという。
平頂山事件、1932(昭和7)年9月16日、満洲国に反対するゲリラ活動の拠点になったという理由で日本軍が集落を掃討、平頂山集落の全住民(女性・子供・赤ん坊を含む)を集めて機関銃を掃射し、それでも死ななかったものを銃剣で刺したという。
南京事件、1937(昭和12)年に日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、2か月にわたって中国軍の残存兵、捕虜、一般市民などを暴行、略奪、強姦、殺人を続けたとされる事件。殺害されたのは20万とも30万人ともいわれている。
黄河決壊事件、日中戦争初期の1938(昭和13)年6月に、中国国民党軍が日本軍の進撃を止める目的で起こした黄河の堤防破壊により洪水を起こした。犠牲者は数十万人に達し、農作物に与えた被害も住民を苦しめた。
重慶爆撃、1938年12月から1943(昭和18)年8月にかけて、日本軍により218回行われた重慶に対する爆撃。1万人以上の被害があったとされる。多くは非戦闘員であった。
シンガポール華僑粛清事件、1942(昭和17)年2月から3月にかけて、日本軍の占領下にあったシンガポールで、日本軍が華僑抗日分子を掃討する目的であやしいとする数千人を機銃掃射により殺害した。
バターン死の行進、フィリピン・バターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・フィリピン軍の捕虜が、収容所に移動するときに多数死亡。将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で3日間移動した。食料の余裕は無かった。炎天下で行進が行われたために、多くの捕虜が倒れた。収容所にたどり着いたのは捕虜となった約7万6千人の内、約5万4千人で、約7千人から1万人がマラリアや飢え、疲労、そして日本軍の処刑などで死亡したものと見られている。
2015年 08月 14日
寺子屋から小学校へ
寺子屋の教育は、まずは挨拶、行儀、食事の作法など、そして「読み書き算盤」といわれた読み方・習字・算数に始まり、手紙の書き方など実生活に必要な教育が行われました。教材には「庭訓往来」「商売往来」「百姓往来」など往復書簡の往来物のほか、漢字を学ぶ「千字文」、人名の「名頭」「苗字尽」、地理を学ぶ「国尽」「町村尽」。そして中には論語などの四書五経、「国史略」「十八史略」などの歴史書、「百人一首」「徒然草」などの古典を教えるところもありました。地域によっては手工業や農業、漁業の手本も教えられた。この場合は職人や農民、漁師が講師になった。多くは寺院などに作られましたが、私塾も多かった。お稽古事、習い事などはそれぞれお師匠さんがいたので、それらが発展した教室もありました。
商業など産業が盛んになれば、手紙や書類のやりとり、お金の管理などがとても大切になります。庶民にとって寺子屋は必要な勉強だったのです。
実は当時の日本の就学率、識字率は世界最高水準でした。江戸における嘉永年間(1850年頃)の就学率は70〜86%といわれており、侍はもとより庶民の多くは手習いなどに通っていました。イギリスの主な工業都市で20〜25%(1837年)、ソビエト連邦時代のモスクワで20%(1920年)などの外国に比べ就学率が格段に高かったようです。

明治5年学制が敷かれ公立小学校の準備が始まると、各地の寺子屋、私塾を整理、統合するなどして新しく学校を作っていきました。場所も先生も必要なものはそろっていたのです。いくら明治維新でも突然学校制度ができたわけでなく、実はその下地ができていたのです。明治政府は制度の整理と教育内容の確認をすればよかったのです。こうして各地に公立の小学校が作られていきました。明治8年の滋賀県では小学校の349校が寺社、181校が旧民家、70校が新築、32校が旧陣屋などでした(文部省第3~4年報、木全清博)。

番町小学校

「奥の細道」を読んで、芭蕉が中国の古典や日本の歴史にとても詳しくて驚いたことがありましたが、芭蕉は武士ですから、やはり藩校などで勉強していたのでしょうか。侍から八つぁん熊さんまで昔からみんな勉強熱心だったようです。
2015年 08月 13日
慰安婦問題とは
いわゆる慰安婦については総理大臣名で謝罪するとともに各個人200万円と医療関係費最大300万円の提供を申し出ましたが、韓国内の反応は拒否でした。支給元が日本政府でなくアジア女性基金という団体名だったからかもしれません。
元慰安婦の方々への内閣総理大臣のおわびの手紙
このたび、政府と国民が協力して進めている「女性のためのアジア平和国民基金」を通じ、元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し、私の気持ちを表明させていただきます。
いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。
我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております。
末筆ながら、皆様方のこれからの人生が安らかなものとなりますよう、心からお祈りしております。
敬具
1996(平成8)年
日本国内閣総理大臣 橋本龍太郎
(歴代署名:小渕恵三、森喜朗、小泉 純一郎)
(CNNニュース、2015.8.13)
日本大使館前では第2次世界大戦中の日本による韓国女性の扱いに抗議するデモが頻繁に行われている。歴史学者の多くは、日本によって性奴隷となることを強要された韓国や中国などアジア各地の女性は約20万人に上ると推定する。
日本ではこうした女性は慰安婦と呼ばれており、政府は女性の名誉と尊厳を深く傷つけたとして公式謝罪。1995年には元慰安婦を支援するための「アジア女性基金」が政府の協力で設立された。
しかし政府が被害者に対する直接的な補償を拒んでいることに対し、活動家や元慰安婦が反発。さらに、女性たちが日本軍によって強制連行されたとは思わないとした保守系の安倍首相の発言を巡ってさらに反発が強まった。
2015年 08月 06日
煉瓦が日本の近代化を支えた

日本煉瓦製造は1887(明治20)年、渋沢栄一によって埼玉県深谷市に工場がつくられた。深谷は渋沢栄一の出身地である。古くから瓦を生産してきた良質の土があった。ドイツの最新技術を導入、良質の煉瓦を大量生産できた。当初隣接する小山川から利根川を経由した水運を利用していたが、需要に追いつくために工場から深谷駅まで専用鉄道を敷設、列車で全国に運んだ。東京駅、万世橋鉄道高架橋、三菱第一号館、旧丸ビル、東京裁判所、慶応大学図書館、横浜開港記念館など歴史的建造物の数々を支えた。

1923(大正12)年、関東大震災に襲われると、煉瓦造りが案外弱いことが知られ、急速にコンクリート造りに移行していった。工場跡地は今も空き地のままであったり、土を採掘した跡だろうか。なかには池ができていたりするところもある。100年以上、近代化を推進してきた煉瓦はブラタモリのように意識して見ないと気がつかなくなってきている。