日清・日露・韓国併合・第1次世界大戦・日中戦争・第2次世界大戦。日本の戦争についてざっと振り返ってみました。学校でもあまり時間をさいて勉強した記憶はありません。知らないことがたくさんあります。どんな理由で外国に軍隊を出したのか、どんな背景があったのか。どんな目的があったのか。
 英雄物語や勝利伝説はたくさん聞かされたけれど、実際にはどんなに悲惨な戦場になっていたか。「ふざけるな、こらしめてやれ」国中が熱くなっているうちに、大事なものをどんどん失っていきました。

 「日本人の命と財産を守るため」「外国で起きている暴動を鎮めるため」こんな口実で軍が動かされました。適当な理由が見つからなければ「自分で事件を起こし」ました。決して「戸締り」のための軍隊ではありませんでした。
 アメリカのベトナム戦争(北ベトナムの漁船から攻撃を受けた)やイラク戦争(イラクのフセインが核開発をしている)も理由は、アメリカ自身が作ったもの、でっちあげでした。同じことを日本もやっていました。

 戦争の傷はいつまでも残ります。政府間では賠償は解決済みとされていることもありますが、現実には被害を受けた人や遺族にはそれが伝わっていないので、未解決とされています。

 元地域の連合町会婦人部長が出征兵士を前に「おめでとう、銃後の守りは心配しないで行ってらっしゃい。バンザイバンザイって、大勢送り出しちゃったんだよ」とくやしそうに涙をこぼしていたのを忘れられません。



ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
               <マルティン・ニーメラーの詩より>
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by yumehonclub | 2015-07-24 16:30 | Comments(0)

太平洋戦争

 1941(昭和16)年12月、真珠湾奇襲攻撃、続けてイギリスの支配するマレー半島を奇襲、さらに香港を制圧。2月にはカリフォルニア州サンタバーバラを砲撃。1942(昭和17)年3月インドネシア・ジャカルタ占領、オランダ軍降伏。ニューギニア、ビルマ占領。またアメリカの植民地フィリピンを制圧した。アメリカ軍将兵の多くをおいて逃げたマッカーサーのI’ll be backはこの時の言葉。5月、マダガスカル島、オーストラリア・シドニー攻撃。

 破竹の勢いのように見えたが、6月ミッドウェー海戦で日本海軍敗北。主要空母を失った。8月ソロモン諸島のガダルカナル島に米軍上陸。戦線を広げすぎ、すでに伸びきった補給線では十分な食料さえまかなえなかった。1943(昭和18)年2月日本軍、ガダルカナル島撤退。4月山本五十六連合艦隊司令長官戦死。5月アッツ島日本軍全滅。10月学徒出陣。1944(昭和19)年サイパン島玉砕、グアム島玉砕。11月東京初空襲。1945(昭和20)年3月には硫黄島玉砕。東京、名古屋、大阪、神戸空襲。そして4月1日〜 6月23日、 20万人の犠牲者が出た沖縄戦。そして横浜、仙台、台北、北海道などの空襲。戦争が終わるまでは、まだ広島と長崎の原子爆弾を待たねばならなかった。日本と連合国との降伏文書調印は9月2日である。日本人の犠牲者は210万人と推定。

 8月8日宣戦布告、9日にソ連軍は満洲、樺太、千島列島に侵攻、逃げる術を失った現地日本人はあらゆる悲劇を体験することになった。
 満洲国を防衛する日本の関東軍は、日ソ中立条約をあてにしていた大本営により、増強されず、さらに南方戦線などへ戦力をそがれて十分な戦力を持っていなかった。ソ連軍の満洲侵攻で犠牲となったのは、主に満蒙開拓移民団員をはじめとする日本人居留民たちであった。彼らは置き去りにされ、ソ連軍の侵略に直面する結果になった。
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開拓団の家の間取り
(何もかも足りないので送ってほしいという手紙の中にあった)

 逃げられないとの判断から、集団自決により命を失った者も多数にのぼった。中には、シベリアや外蒙古、中央アジア等に連行・抑留された者もいる。
 この混乱の中、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして中国残留孤児が数多く発生した。引き揚げ作業は遅れ、1946(昭和21)年から開始された。それまでに多くの犠牲者を出したとされる。
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by yumehonclub | 2015-07-23 16:41 | Comments(0)

日中戦争

1917(大正6)年、第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、ソビエト連邦が成立。第一次世界大戦に参戦していた連合国はシベリアに出兵。革命に干渉したがアメリカをはじめとする連合国の撤兵により失敗。
 共産主義の拡大に対する防衛基地として満洲の重要性が高まり、満蒙(満洲と内蒙古)は「日本の生命線」と見なされるようになった。

 1928(昭和3)年5月、中国内地を一時押さえていた張作霖が蒋介石の国民革命軍に敗れて満洲へ撤退してくると関東軍(中国関東州に駐留した日本陸軍。中国侵略、満洲支配の中核)は日本の権益の阻害になると判断し、張作霖を殺害(張作霖爆殺事件)。
 関東軍は、1931(昭和6)年9月18日、自ら鉄道を爆破(満州事変、柳条湖事件)、これを中国軍のしわざとして満洲全土を占領した。1932(昭和7)年3月、清朝最後の皇帝溥儀を迎え満洲国建国を宣言した。国際連盟は日本の行動は認められないとしたが、日本は国連を脱退した。

 1937(昭和12)年7月7日、当時北支に駐屯していた日本軍と中国国民党軍が衝突し、盧溝橋事件が勃発する‬。‬‬近衛内閣は、これは中国側の計画的武力行使であり、日本は自衛権を行使するとした。
 近衛内閣は8月15日、声明を発表し、目的は「排日抗日運動の根絶と日本満州支那三国の融和」にあるとし、上海を攻撃‬。一方、蒋介石の中華民国も全国総動員令を発し、さらに毛沢東の中国共産党も「抗日救国十大綱領」を発表し、中国全土での日中全面戦争となった‬。‬‬‬‬

 1937年9月、 国際連盟は日本軍による中国の都市への空爆に対する非難決議を満場一致で採択。8月15日から9月25日までの合計11次に及ぶ日本軍による「無差別攻撃」は同年4月26日のゲルニカ爆撃と並んで、未曾有の大空襲だとされた。
 南京では1937年12月総攻撃を開始し、南京城壁を破壊して城内に入り、占領した‪。大量殺害、民間人に対する略奪、レイプ、殺害事件が起きた (南京事件)。戦火は中国の各都市に広がった。敵は国民政府であり、中国共産党(紅軍)であった。 ‬‬

 日本国内では軍人によるクーデター計画などファシズムが進み、1936年には2・26事件などが起きている。1938年には国家総動員法、39年には国民徴用令が公布された。
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 ヨーロッパでは1939年9月1日、ナチス・ドイツ軍がポーランドへ侵攻。第二次世界大戦が始まった。イギリス・フランスがドイツに宣戦布告。ソ連はバルト三国を併合した。ナチス・ドイツのフランス侵攻によりフランスが敗北すると、日本軍はフランス領インドシナ(ベトナム)に進駐した。1940年9月、ドイツは、イタリアおよび日本と日独伊三国軍事同盟を結成。戦線は一気に拡大した。警戒するアメリカは貿易の制限(日本への石油禁輸)を強めた。
 そして1941年12月8日、日本はハワイ奇襲攻撃。アメリカに宣戦布告。太平洋戦争が始まった。
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by yumehonclub | 2015-07-22 17:45 | Comments(0)

第一次世界大戦

 事件は1914年ヨーロッパで起きました。バルカン半島は多民族、多宗教の入り乱れる「火薬庫」です。ドイツとオーストリアが進出してくると、セルビアの青年がオーストリアの皇太子を襲撃する事件が起きました。オーストリアがセルビアに宣戦布告するとセルビアと同じロシア正教系のロシアが参戦。ロシアと同盟を結んでいたイギリス、フランスが参戦。対抗してドイツが参戦、のちにトルコも加わりました。最終的には同盟関係などで30カ国が参戦しています。近代兵器の戦車、飛行機、潜水艦、毒ガスなどが登場、兵士だけでなく一般人も容赦なく巻き込まれるようになりました。

 もともとはヨーロッパの戦争でしたが、日本は日英同盟を結んでいたため、イギリス側(連合国)で参戦、ドイツに宣戦布告をします。攻撃したのは主に中国国内のドイツ基地。中国に対して持っているドイツの権益を奪うのが目的でした。結果は旅順、大連の租借(借りる権利)期間や満州鉄道の租借延長、中国政府に日本人顧問を受け入れさせました。5年にわたる戦争の中では中国青島占領や南洋諸島占領、地中海への日本艦隊派遣やシベリア出兵、連合国輸送船護衛など日本軍は各地に展開しています。

 1917年ロシアは社会主義革命が起きて離脱。戦況は一進一退、やがてアメリカが参戦して1919年ようやく連合国軍の勝利で終了しました。戦死者1500万人、負傷者2000万人といわれる世界戦争でした。
 ドイツは多くの植民地を太平洋地域に持っていました。連合国軍勝利の結果、日本はドイツが支配下に置いていた赤道以北の太平洋上の南洋群島カロリン諸島、マーシャル諸島、パラオ諸島、マリアナ諸島(グアム島を除く)を委任統治領として譲り受けるとともに、国際連盟の常任理事国となりました。

 戦争が日本の海運・造船業を発展させました。大量の物資や兵器が必要でした。日本は世界有数の海運国に躍進、それまでの債務も完済しました。大戦景気、戦争特需でした。
 戦争が終わると一気に物資があまり、売れなくなり恐慌が起きました。さらに続けて関東大震災にみまわれました。一方、ドイツは巨額の賠償が請求され、国民の不満が高じてのちにナチスの台頭を見ることになります。
 
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by yumehonclub | 2015-07-14 15:40 | Comments(0)

日露戦争と韓国併合

 1900(明治33)年に列強各国(8か国)は清で発生した義和団事件(外国人排斥運動)の混乱をチャンス(自国民保護)とみて清へ侵攻した。ロシアは満洲に侵攻、満洲をを植民地化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは期限を過ぎても撤退せず駐留軍の増強を図った。
 ロシアは朝鮮の高宗を通じ売り払われた鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感を持っていた日本がこれらを買い戻した。
 
 イギリスは、ロシアの南下が自国の権益と衝突すると危機感を募らせ、1902(明治35)年に日本との同盟に踏み切った(日英同盟)。
 1904(明治37)年、日本は大韓帝国内における軍事行動を可能にするために日韓議定書を締結し、開戦後には第一次日韓協約を締結、大韓帝国の財政、外交に顧問を置き日本政府と協議をすることとした。
 
 日本ではロシアに対する「安全保障上の理由」から、朝鮮半島を日本の勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていた。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、中国の朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還させられた。
 
 日露交渉で、日本は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという案をロシア側へ提案した。これは朝鮮半島でのロシアの利権侵害になるとして、ロシアは朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。日本側では、この提案では朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も「危機的な状況」になりかねないと判断した。
 
 一方、高宗などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。

  日露戦争は、1904(明治37)年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口)に始まった。
 2月10日には日本からロシアへの宣戦布告がなされた。旅順、黄海海戦、遼陽、奉天、日本海海戦、樺太と続いた。戦争は長引き、やがてロシアでは、日本軍に対する相次ぐ敗北と帝政に対する民衆の不満が増大し、厭戦気分が蔓延し、経済も停滞、1905(明治38)年1月9日にはロシア革命の幕開けともいうべき血の日曜日事件が発生した。
 戦争は1年半に及び、日本では総動員兵力は109万人に達し、国内産業の稼働が低下し経済的に国力の消耗が激しかったことから、1905(明治38)年9月5日ポーツマス条約により講和した。朝鮮半島におけるロシアの影響は排除できたが、賠償金はとれなかった。
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 日露戦争は朝鮮半島における日本とロシアの利権争い、あるいはロシアの南下政策をめぐる安全保障の争いだった。
 日露戦争の戦費総額は18億2629万円とされる。年間国家予算2.6億円の時代にである。日本側死者11万5千人うち病死2万7千人、ロシア側死者4万3千人うち病死者1万1千人という。

 
 日本は朝鮮(大韓帝国)の外交権を取り上げ、内政・財政にも強い影響を与え朝鮮の植民地化を進めていく。1905(明治38)年「通貨を統一」日本と同じになった。1907(明治40)年韓国皇帝高宗は退位。韓国軍は解散させた。1909(明治42)年韓国統監府初代統監伊藤博文が安重根に暗殺される。そして1910(明治43)年「地域の混乱を防ぐため」日本は韓国を併合。列強各国の反対はなかったという。併合は日本が負ける第二次世界大戦終了まで続く。
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by yumehonclub | 2015-07-08 15:07 | Comments(0)

日清戦争

江戸から明治へ、それは列強各国が植民地支配を進めていた時代、中国、朝鮮、日本も激動の時代を迎えていた。
 1872(明治5)年琉球王国を強制的に日本に組み入れるという琉球処分や1874(明治7)年の日本軍の台湾出兵を見た中国・清は、朝鮮半島への日本の進出を警戒、朝鮮政府(李氏朝鮮)に米英独との条約締結を勧めた。混乱する朝鮮国内で親清派と親日派が争うようになった。
 1882(明治15)年首都漢城で暴動が起き、日本公使館が襲われた。日清両国が出兵、一部はそのまま駐留、朝鮮への干渉を強めた。軍の力が清に比べて弱いとして日本は軍備拡張を進めた。
 1894(明治27)年、朝鮮国内での反乱(東学農民運動)が再び起こると、これを押さえるために李氏朝鮮が宗主国の清国軍を呼んだのをきっかけに日本軍も出兵。ともに数千の兵を上陸させた。暴動は収まったが、日清両軍は撤退せず、互いに撤退するよう警告した。撤退しなければ武力で撤退させる。宣戦布告。日清戦争である。日本政府の目的は「日本人保護」から「朝鮮の内政改革」に変わっていた。
 朝鮮北部、東シナ海、台湾などを主な戦場として、約9カ月ののち、日本が勝利。遼東半島などを獲得した。日本側死者1万3千人そのうち9割が病死という。清側死者3万5千人、こちらは死者が多く処刑が含まれているのではないかと疑われている。
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高さ8メートルを超える戦勝記念燈明台(深川不動堂)


 李氏朝鮮は長らく中国王朝の冊封体制で清の保護下にあったが、日清戦争で清が敗れると、以後「日本の影響下」に置かれた。
 しかし、反発する朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、高宗の妃の閔妃は親ロシア政策を取る。これに反対する日本守備隊により1895年10月に閔妃が惨殺された。
 朝鮮国内の混乱と弱体化する中国、列強各国の利権獲得競争は激しくなっていく。日清戦争は朝鮮半島から中国・ロシアなどの影響を排除し、日本の影響を強めることであった。
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by yumehonclub | 2015-07-07 17:06 | Comments(0)