川をつないで流れを変えた

利根川をはじめ関東の川の多くは今の東京湾に注いでいた。江戸幕府は川をつないだり、止めたりしてかなりの部分を利根川水系に集め、江戸でなく銚子に流れるようにした。その理由は江戸城下の水害防止、水運の効率化、軍事上の理由などがあげられている。

1594年 利根川の分流、会の川を閉め切る。
1621年 新川通、赤堀川を開削して利根川を常陸川につなぎ、銚子まで結ぶ。
1629年 鬼怒川と利根川の合流地点を30キロ上流に移動して、水深を確保。水運をはかる。荒川は利根川から離れ独立水系となる。
1641年 江戸川の開削。関宿より分流、江戸に流れる。

まず利根川の流れを渡良瀬川につなぎ、さらに常陸川につなぎ、鬼怒川とともに銚子に流し、太平洋にそそぐという大工事だった。旧利根川の本流は千葉県野田市の関宿で分かれ、江戸川として江戸への水運とした。
この河川改修により東北方面から房総半島沿いをまわる海運より安全な舟運ができるようになったという。

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江戸幕府は多くの川に橋をかけさせなかったが、千住大橋は例外であった。利用する大名、藩の数が特に多かったからだという。江戸名所図会によれば両岸に材木問屋があり、川を利用して材木を運んでいるのがわかる。

水は低いところに流れる。放っておけば、地勢から一番低い江戸に流れる。つまり河川の管理が重要、洪水があれば江戸がやられる。そこで水が江戸城下に入らないように左右の高さを変えて堤防をつくっている。仮に決壊しても水は城外にあふれるようにしている。

しかし1910(明治43)年8月東京下町は大洪水にみまわれた。本所も浅草も舟や手づくりの筏を使わなければ移動できないほどだった。そのため荒川放水路を新たに開削、現在の荒川ができた。隅田川への水の集中を防ぐためだ。
「千代ばあちゃんの思い出袋」東京大洪水の記録


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by yumehonclub | 2014-06-18 15:13 | Comments(0)

にぎやかな浅草

浅草は江戸後期おおいに栄え、仲見世には20軒茶屋と呼ばれる茶屋が並び、その後ろにはおおくの寺社が集まっていた。金比羅様、弁天様…… 観音様だけでなく広く参詣できたようだ。境内では居合い抜き、猿まわしなど見せ物が行われ、さらに弓楊場があって、的に弓で矢をあてるゲームだが、実際には矢を拾う女性がいて、風俗店だったようだ。裏は浅草田んぼとよばれその先は吉原があった。雷門の前には番所があり、夜間など不審者の通行をきびしく取り締まっていた。
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浅草寺はアメリカ軍の空襲で焼失。戦後、五重塔は二天門の反対側に再建された。かつての五重塔跡は参詣者の休憩所になっている。
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浅草絵巻

浅草寺の年中行事にはいろいろありますが、金龍の舞、白鷺の舞、七福神の舞、舟渡御など華やかな絵模様を一堂に見ることができました。東京時代行列。
 金の鱗数千枚をまとった16メートルの龍が広い道を右に左に舞い、獅子舞のごとく見物客の頭の上に口を近づけて舞う様子はダイナミック。少し速度を上げれば、そのまま空を飛んでも不思議はない気がします。千と千尋のように。そして白鷺の舞。両手いっぱいに翼を広げて八羽の鷺が舞います。大きく輪を描いて走る様子は、本物の鷺が地におりる直前のようです。降り立って片足をあげて歩く様子は、ほんとうに鷺のようです。江戸名所図会によれば、浅草寺の裏手は田畑が広がっていました。鷺もたくさんいたことでしょう。
 ご本尊の観音像は隅田川の漁師の網にかかったのだと言い伝えられています。そのため祭りの渡御が隅田川で行われていたといいます。明治以降、浅草寺と浅草神社(三社様)は分けられましたが、元は一つ。舟渡御を模した列で一の宮から三の宮までの神輿が運ばれました。
 さて時代行列は太田道灌の江戸城づくりから。石垣には巨石が運ばれ、家康の入城、家光、大名行列の再現、浅草芸者、水戸黄門や一心太助などを挟んで、幕末、新撰組、そして明治東京へ。幼稚園児から90歳のベテランまでたくさんの演技付きで元気な浅草絵巻でした。
 浅草寺は金龍山という。その金の龍が舞う。

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by yumehonclub | 2014-06-16 13:04 | Comments(0)