石川啄木は1886(明治19)年岩手県盛岡に生まれた。盛岡中学時代に金田一京助と知り合う。与謝野鉄幹の『明星』の短歌に傾倒。与謝野夫妻をたずねるが、東京での就職ならず帰郷、結婚、父母妹と同居。代用教員として生活をはじめた。
 文学の夢捨てがたく、1907(明治40)年には北海道函館で勤務、家族は親類に預けた。その後札幌で新聞社の校正係や小樽や釧路の新聞記者などを転々とした。
 1908(明治41)年東京に出て、与謝野鉄幹に連れられ森鴎外宅での観潮楼歌会に出席。1909年(明治42年)編集長だった盛岡中学の先輩佐藤北江の好意で東京朝日新聞の校正係となる。

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        新聞社からの夜の帰り道、湯島の切通坂、この道を歩いたという

 金田一は下宿の世話など経済的援助を惜しまず与えている。生活が厳しかったのは事実だが、啄木はときに浅草などの女との遊興に費やしていたという。借金のことを記録に残しているが、合計すると63人から総額1372円50銭借りた。今の金額にすると1000万円を超えるといわれている。
 1910(明治43)年天皇暗殺計画いわゆる大逆事件が起きた。幸徳秋水らが有罪死刑になったが、啄木はこの事件にでっち上げのにおいを感じていた。
 東京朝日新聞は「朝日歌壇」をスタート、啄木は短歌の選者になった。『一握の砂』出版。

 東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる

 たはむれに母を背負いて
 そのあまり軽きに泣きて
 三歩あゆまず

 はたらけど
 はたらけど猶わが生活楽にならざり
 ぢっと手を見る

 ふるさとの訛なつかし
 停車場の人ごみの中に
 そを聴きにゆく
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 かにかくに渋民村は恋しかり
 おもいでの山
 おもいでの川

 石をもて追わるるごとく
 ふるさとを出でしかなしみ
 消ゆる時なし

 やはらかに柳あをめる
 北上の岸辺目に見ゆ
 泣けとごとくに

 ふるさとの山にむかひて
 言ふことなし
 ふるさとの山はありがたきかな
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 この時代医学は結核には無力だった。1912(明治45)年小石川区久堅町で肺結核のため死去、26歳。第2歌集『悲しき玩具』は2カ月後に出版された。翌年妻節子も肺結核で死去、27歳。

 呼吸すれば、
 胸の中にて啜る音あり。
 凩よりもさびしきその音!

 結核の特効薬ストレプトマイシンができたのは、34年後、1946年のことだ。

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by yumehonclub | 2016-03-16 10:36 | 明治 | Comments(0)