漱石のこと

c0326000_17543680.jpg漱石は1867(慶応3)年、江戸牛込の大名主の5男として生まれた。間もなく里子に出され、一度戻されるが再び里子に、そこも養父母の不仲から生家に戻ったのは9歳、生家の夏目姓を名乗るのは21歳になってからだ。

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東大に近い「ねこの家」この家で「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」を書いた。その10年前には森鴎外が住んでいた。
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学業成績は優秀で二松學舍、成立學舎で英語を学び、大学予備門予科、帝国大学文科大学英文科入学、やがて特待生となる。卒業後は高等師範学校の教師、愛媛松山中学の教師をしている。このとき校長より高い給金をもらっていたという。一方では近親者の死が続いたこともあって厭世主義・神経衰弱に襲われるようになった。学生時代には正岡子規と知り合い交流を深めた。「漱石」とは子規からもらった名だ。子規は一緒に食べに行くとよく支払いはよろしくと漱石に出させることもあったが、漱石は気にしなかったという。人を寄せ付ける親分肌と神経衰弱・胃潰瘍とを両方もっていた。 
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1886(明治19)年結婚するが妻鏡子が自殺を図るなど順調ではなかった。長女が1歳のとき英語教育法研究のためイギリス留学、神経衰弱がすすみ2年半で呼び戻される。帰国後は東京帝国大学と第一高校の講師となった。

1905(明治38)年1月『吾輩は猫である』を高浜虚子の主宰していた雑誌ホトトギスに発表。『倫敦塔』『坊っちゃん』などと続いた。

漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉・森田草平・寺田寅彦・阿部次郎・安倍能成、さらに芥川龍之介や久米正雄、内田百閒・野上弥生子など多くの文人が集まるようになっていった。家は広いが対応が大変と日にちを決め「木曜会」と名付けた。
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 文人たちが毎週のように集まり、お互いに刺激しあい、それぞれわれこそは漱石の門人であり弟子であると自負していた。
1907(明治40)年、教職を離れ朝日新聞社に入社、文筆活動に専念した。このときの給料は、のちの啄木の入社時と比べると数倍高いものだったという。
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漱石の死後、建て替えられた家はまるで料亭のようだといわれるほど大きく立派なものだったそうですが、太平洋戦争の空襲で焼け落ちてしまいました。新宿区は生誕150年を記念して漱石記念館を建設。漱石山房の復元と諸資料の収集公開をめざしている。

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by yumehonclub | 2016-03-09 18:13 | Comments(0)