寺子屋から小学校へ

 江戸時代、学校といえば幕府直轄の昌平坂学問所(昌平黌)や、各藩にあった藩校ですが、こちらは武士の子弟男子の学ぶところ。成績次第で出世に影響する怖いところですが、これとは別に庶民の教育機関は寺子屋、手習いでした。1883(明治16)年の文部省全国調査「日本教育史資料」によると、全国に16,560軒の寺子屋があったといい、江戸だけでも寺子屋が400〜500軒、小規模なものも含めれば1,000〜1,300軒ぐらい存在していたということです。
 寺子屋の教育は、まずは挨拶、行儀、食事の作法など、そして「読み書き算盤」といわれた読み方・習字・算数に始まり、手紙の書き方など実生活に必要な教育が行われました。教材には「庭訓往来」「商売往来」「百姓往来」など往復書簡の往来物のほか、漢字を学ぶ「千字文」、人名の「名頭」「苗字尽」、地理を学ぶ「国尽」「町村尽」。そして中には論語などの四書五経、「国史略」「十八史略」などの歴史書、「百人一首」「徒然草」などの古典を教えるところもありました。地域によっては手工業や農業、漁業の手本も教えられた。この場合は職人や農民、漁師が講師になった。多くは寺院などに作られましたが、私塾も多かった。お稽古事、習い事などはそれぞれお師匠さんがいたので、それらが発展した教室もありました。
 商業など産業が盛んになれば、手紙や書類のやりとり、お金の管理などがとても大切になります。庶民にとって寺子屋は必要な勉強だったのです。
 実は当時の日本の就学率、識字率は世界最高水準でした。江戸における嘉永年間(1850年頃)の就学率は70〜86%といわれており、侍はもとより庶民の多くは手習いなどに通っていました。イギリスの主な工業都市で20〜25%(1837年)、ソビエト連邦時代のモスクワで20%(1920年)などの外国に比べ就学率が格段に高かったようです。
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                           創立140年の泰明小学校

 明治5年学制が敷かれ公立小学校の準備が始まると、各地の寺子屋、私塾を整理、統合するなどして新しく学校を作っていきました。場所も先生も必要なものはそろっていたのです。いくら明治維新でも突然学校制度ができたわけでなく、実はその下地ができていたのです。明治政府は制度の整理と教育内容の確認をすればよかったのです。こうして各地に公立の小学校が作られていきました。明治8年の滋賀県では小学校の349校が寺社、181校が旧民家、70校が新築、32校が旧陣屋などでした(文部省第3~4年報、木全清博)。
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                            番町小学校

c0326000_102255.jpg  寺の境内に建つ小学校の碑。明治9年竹嶋小学校開校、12年に正矯小学校と改名(足立区・西光院・萬福寺)

 「奥の細道」を読んで、芭蕉が中国の古典や日本の歴史にとても詳しくて驚いたことがありましたが、芭蕉は武士ですから、やはり藩校などで勉強していたのでしょうか。侍から八つぁん熊さんまで昔からみんな勉強熱心だったようです。

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by yumehonclub | 2015-08-14 14:38 | Comments(0)