日清戦争

江戸から明治へ、それは列強各国が植民地支配を進めていた時代、中国、朝鮮、日本も激動の時代を迎えていた。
 1872(明治5)年琉球王国を強制的に日本に組み入れるという琉球処分や1874(明治7)年の日本軍の台湾出兵を見た中国・清は、朝鮮半島への日本の進出を警戒、朝鮮政府(李氏朝鮮)に米英独との条約締結を勧めた。混乱する朝鮮国内で親清派と親日派が争うようになった。
 1882(明治15)年首都漢城で暴動が起き、日本公使館が襲われた。日清両国が出兵、一部はそのまま駐留、朝鮮への干渉を強めた。軍の力が清に比べて弱いとして日本は軍備拡張を進めた。
 1894(明治27)年、朝鮮国内での反乱(東学農民運動)が再び起こると、これを押さえるために李氏朝鮮が宗主国の清国軍を呼んだのをきっかけに日本軍も出兵。ともに数千の兵を上陸させた。暴動は収まったが、日清両軍は撤退せず、互いに撤退するよう警告した。撤退しなければ武力で撤退させる。宣戦布告。日清戦争である。日本政府の目的は「日本人保護」から「朝鮮の内政改革」に変わっていた。
 朝鮮北部、東シナ海、台湾などを主な戦場として、約9カ月ののち、日本が勝利。遼東半島などを獲得した。日本側死者1万3千人そのうち9割が病死という。清側死者3万5千人、こちらは死者が多く処刑が含まれているのではないかと疑われている。
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高さ8メートルを超える戦勝記念燈明台(深川不動堂)


 李氏朝鮮は長らく中国王朝の冊封体制で清の保護下にあったが、日清戦争で清が敗れると、以後「日本の影響下」に置かれた。
 しかし、反発する朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、高宗の妃の閔妃は親ロシア政策を取る。これに反対する日本守備隊により1895年10月に閔妃が惨殺された。
 朝鮮国内の混乱と弱体化する中国、列強各国の利権獲得競争は激しくなっていく。日清戦争は朝鮮半島から中国・ロシアなどの影響を排除し、日本の影響を強めることであった。

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by yumehonclub | 2015-07-07 17:06 | Comments(0)