三菱財閥 岩崎弥太郎は政府高官と密着

 明治維新後、各藩で発行していた藩札を政府が買い取り貨幣統一を図ることを政府高官の後藤象二郎から聞いた岩崎弥太郎が、十万両の資金を用意して藩札を買い占め、政府に買い取らせて莫大な利益を得たといいます。
 1873年に三菱商会をつくり、土佐藩の船三艘を買い取り、西南戦争の時には大久保利通、大隈重信らの後援を得て政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受けた。戦費の3分の1は三菱の利益だったともいいます。

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  元禄時代に柳沢吉保がつくった六義園は明治に岩崎弥太郎が所有、昭和になって東京市に寄付されたものです。


 1885年の弥太郎死後、あとを継いだのが弟・弥之助、事業の多角化をすすめました。高島炭鉱、長崎造船所の払い下げ、第百十九国立銀行の買収、東京倉庫、神戸、下関造船所、麒麟麦酒、銀行・倉庫・地所・造船などの事業をすすめ、自らは日銀総裁になると三菱の総帥を弥太郎の子に譲りました。長男・小弥太は三菱造船、三菱製紙、三菱商事、三菱鉱業、三菱銀行、三菱内燃機製造、三菱電機と次々に分割化していきました。そして、満州事変から第二次世界大戦にかけて軍需の膨張を背景に各事業は飛躍的に拡大したのです。

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 三菱財閥の総資産は一時推定120兆円ともいわれましたが、第二次世界大戦で日本が負けると、軍需産業など産業の巨大化、寡占化はよくないと解体された。しかし世界が資本主義国家と共産主義国家の対立という冷戦の時代に入り、朝鮮動乱という1950年からの新たな戦争による特需により、米軍車両や航空機の修理などに、分割されていた財閥系企業が再び活躍、日本もまた経済力をつけることになったのです。

 財閥の歴史は、日本近代化の牽引力であるとともに、常に政府との癒着、軍需産業による利益とつながり、好景気と戦争というその危うさも抱えていたことがわかります。その証拠に戦争が終了すると毎回のようにやがて経済恐慌がやってきているのです。

 財閥は大きな力を持つがゆえに日本の未来をも左右してきました。利益追求だけに走るのでなく、日本のこれからを背負う責任は極めて大きいということです。
 現在三菱広報委員会会員は39社になっています。

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by yumehonclub | 2015-03-13 16:25 | Comments(0)