「政治をやっている間に、肝腎の人民が亡んでしまった」田中正造

 渡良瀬川、淵とついたところには水2、3丈はありました。鯉など年中はねていました。ただいまでは鉱毒土砂沈殿し、8尺、9尺しかありません。魚はおりません。
 4月、虫、蜘蛛、蟷螂、けら、百足などがたくさんいて、時鳥が飛び交ったものですが、虫もいないのでしょう。一声も聞きません。卯の花も咲きません。5月には子どもたち集まって蛍狩りにいったものですが、蛍は見えません。大麦、小麦もたくさんとれたのですが、今はなにもはえません。7月の土用明けのころは蜉蝣が無数に飛びますが、今は少しも飛びません。暑い日に雷が鳴って雨が降ると河原に出て投網を打ちますと小魚がたくさんとれました。今は夕立の後もなにもとれません。白鷺も鵜もおりません。
 11月、大根や牛蒡や芋などを保存するために野中などに穴を掘って入れておきます。銘々に印をつけておきます。麦の種をおいておきますと生えてきて目印になります。今は芋もとれないのでこの塚がありません。12月には狐や貉が家の周りにえさを求めてやってきたものですが、鼠もいないので声も聞こえません。

 足尾銅山鉱毒事件は、明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた古河鉱業足尾銅山での公害事件です。いわば日本初の大規模な公害事件です。
 当時銅は日本の主要輸出品のひとつであり、全国の産出量の1/4は足尾銅山が占めていました。しかし精錬時の燃料による排煙や、精製時に発生する鉱毒ガス(二酸化硫黄)、排水に含まれる鉱毒(銅イオンなど)は、付近に大きなな被害をもたらしました。
 鉱毒ガスや酸性雨により足尾町近辺の山は禿山となりました。木を失い土壌を喪失した土地は次々と崩れて、崩れた土砂は渡良瀬川を流れ、下流で堆積しました。
 1878年と1885年に、渡良瀬川の鮎が大量死。渡良瀬川から取水する田園や、浅くなった川は洪水しやすく、足尾から流れた土砂が堆積した田園で、稲が立ち枯れるという被害が続出しました。鉱毒被害の範囲は渡良瀬川流域だけにとどまらず、江戸川を経由し行徳方面、利根川を経由し霞ヶ浦方面まで拡大しました。
 1899(明治32)年の群馬栃木両県鉱毒事務所によると、鉱毒による死者・死産は推計で1064人。
 1901年には、足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となり、松木村に隣接する久蔵村、仁田元村もこれに前後して同様に廃村となりました。
 農民たちは群馬県館林市の雲龍寺を拠点に東京に大挙陳情(「押出し」といった)に向かった。大規模なのは6回だという。1891年からたびたび田中正造が国会で質問したにもかかわらず、政府は積極的には鉱毒対策を行わなかった。日清戦争・日露戦争のさなかであった政府としては、鉱山の操業を止めることはできなかった。1902年に栃木県、群馬県、埼玉県、茨城県の境に、鉱毒沈殿用の渡良瀬遊水地が作られた。反対運動を食い止めるため、政府は田中正造の出身地谷中村を廃村にし強制的に遊水地とした。

 1973(昭和48)年までに足尾の銅は掘りつくされて閉山、公害は減少した。ただし、精錬所の操業は1980年代まで続き、鉱毒はその後も流されたとされる。
 その後、荒廃した足尾地区の森林を復元するため、植林など、現在まで懸命に治山事業が続けられている。
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 1898(明治31)年9月、被害住民3000人が鉱毒被害を訴えるため上京した。被害問題に取り組んだ田中正造(当時衆議院議員)は、同年9月28日、上京する被害住民とここ保木間氷川神社で出会い、鉱毒問題の解決に努力するという演説を行い、被害住民を帰郷に導いた。この時被害住民は涙して演説を聞いたといい、これを保木間の誓いという。
 当時東京府南足立郡淵江村だったこの地では、村長坂田正助と村会議員が、上京途中憲兵や騎馬警官による阻止・排除を受けた被害住民に、炊き出しを行って出迎え、被害住民と共に正造の演説を聞いた(「田中正造日記」)。こうした被害住民への支援は淵江村の人々と被害住民の農民同士の連帯感によって支えられていたという。(足立区教育委員会)

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by yumehonclub | 2015-01-14 16:10 | Comments(0)