上野戦争 寛永寺 円通寺

1868(慶応4)年 大政奉還、江戸開城を迎え、江戸では徳川幕府の抵抗とでもいうべき上野戦争(彰義隊)が起きた。大村益次郎の指揮する新政府軍1万が上野寛永寺に立てこもる彰義隊2〜3千人を攻撃、本郷側からアームストロング砲という大砲をしかけ粉砕した。徳川将軍家の菩提寺・広大な寛永寺の伽藍はその多くが灰燼に帰した。
わずかに残る寛永寺の黒門がのちに三ノ輪の円通寺に移築されて弾丸の痕がなまなましく残っている。

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彰義隊戦死者の遺体は身内の引き取りも認められず、長い間そのまま放置された。見かねた寛永寺の御用商人や円通寺の僧が願い出て荼毘に付した。墓も建てられなかったという。当時の慰霊碑には戦死者の名前はない。円通寺の記録では彰義隊266名の遺骸があったという。新政府軍側の戦死者はのちに靖国神社に祀られたという。

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寛永寺には、将軍のお成り道広小路側に黒門、清水堂。しばらく山を登ると大きな門、左に鐘楼、五重塔、大仏。回廊に囲まれた根本中堂は今の噴水のあたり、その先、国立博物館のあるところにはさらに大きなお堂があったという。
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旧本坊表門
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谷中の経王寺の山門にも当時の弾痕が残っていて、兵を追った様子が想像される。幕府側はやがて会津戦争へ、函館戦争へと追いつめられていく。

境内は明治政府により接収され、のちに上野公園となった。現在、五重塔は東京都に所属。寛永寺本堂は川越の喜多院から移築、谷中墓地の近くにしずかにたたずむ。

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by yumehonclub | 2014-01-21 10:58 | Comments(0)