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憲法はどうやってできたの

1945年
6月23日 沖縄の日本軍敗北。県民を巻き込んだ組織的戦闘が終わる。日本側犠牲者は18〜20万人ともいわれる。
8月6日 広島に原爆投下、11月までに17万人死亡、5年後までには24万7000人が死亡した。
8月8日 ソ連参戦、満州、朝鮮、樺太に侵攻。
8月9日 長崎に原爆、12月までに8万人死亡。
8月10日 御前会議で国体護持(天皇制)を条件にポツダム宣言受諾を決定、海外に通知。
8月14日 ポツダム宣言無条件受諾を決定。
8月15日 ラジオで終戦を発表。
8月18日 満州国消滅。
8月22日 ソ連潜水艦、引揚船を攻撃。
8月23日 スターリンが日本人50万人のシベリア抑留を指令。
8月30日 連合軍最高司令官マッカーサー厚木に到着。
9月2日 東京湾戦艦ミズーリ号で降伏文書に署名。米・英・ソ連・中国・オーストラリア・カナダ・フランス・オランダ・ニュージーランドが署名。
9月6日 連合軍海軍司令部が慶應義塾大学日吉校舎を接収。
9月9日 南京で日本軍降伏。
9月15日 日比谷の第一生命ビルにGHQ(連合軍総司令部)本部ができる。
9月27日 天皇がマッカーサーを訪問。

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 間違いなく日本の歴史の中で最も悲惨な時代だった。海外に展開していた日本人は気がついたら周りはすべて敵、日本に帰るに帰れず、またやっと帰っても食糧さえないありさまだった。
 こんな中でGHQ占領軍の指示の下、いわゆる平和憲法ができる。その流れを追ってみよう。

10月4日 GHQは政治犯の釈放、特高警察の廃止、言論、集会などの自由制限する法律の廃止を指示。東久邇内閣はそれはできないとして総辞職。次の幣原内閣が治安維持法など15の法律・法令を廃止、政治犯3000人を釈放した。
10月11日 マッカーサーは憲法改正に言及。
10月25日 幣原内閣は憲法問題調査委員会を設置。

1946年
2月8日 委員会は憲法改正要項をGHQに提出。この間民間有識者たちによっても草案が発表されている。また各政党も草案を出している。自由党と進歩党は明治憲法に近く、共産党は天皇制廃止、社会党は国民生存権などを唱えた。
2月13日 GHQは提出した憲法改正要項を拒否。代わりにGHQ草案が渡された。
2月22日 閣議でGHQ草案に沿って憲法改正すべく、政府案の作成に入った。
3月2日 試案提出。3月5日確定、6日憲法改正草案要綱として発表。
米国政府や極東委員会は拙速として懸念を示したが、マッカーサーは支持。
6月8日 憲法改正草案は吉田内閣の下、枢密院本会議で可決された。
8月24日 新選挙法で選ばれた衆議院本会議で帝国憲法改正案は、賛成421、反対8で可決、10月6日貴族院で可決、GHQの要請で部分修正をした後、再び衆議院で可決。
10月29日 再び枢密院で可決、天皇の裁可を経て11月3日に公布。

1947年
5月3日 日本国憲法施行。

by yumehonclub | 2016-01-14 13:56

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