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関東大震災復興計画

 1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災が大きな被害をもたらした。続けて発生した火災によって家々は焼かれ、多数の死者が出た。生き残った人々は親類縁者をたより、徒歩で避難した。役所が焼失し戸籍簿もなくなった。私が誰なのか証明するものはない。朝鮮人が殺しにくる、井戸水に毒物を入れているなどのうわさが飛び交い、橋などに多くの自警団の人が出て、日本語の発音のたどたどしい人を殺した。軍は発砲した。犠牲者は2000人とも6000人ともいわれ、現在でもはっきりしない。
 避難した子供たちは学校にいくが、何年生なのか証明するものがない。何年生ですか。3年生です。九九はわかるかい。わかりません。九九は習ってないのだね。こんなテストで学年を決めたという。

 震災復興計画は当初、復興省に一本化をめざしたが各省庁の反対で頓挫、当時東京市長であった後藤新平を内務大臣として帝都復興院をつくり東京・横浜の復興計画を練ったが、国家予算に匹敵する莫大な予算は承認されず復興院は解散。この間多数の汚職疑獄事件が発生したが、新聞も機密費で懐柔されるなどして追及は弱いものだった。結局、内務省復興局として実務にあたることになった。
 後藤新平の案では、まず放射状道路と環状道路をつくること。これは通行と防災の確保。また鉄筋コンクリートの学校をつくり、小学校単位で公園を確保、防災の拠点をつくること。橋は恒久的な物をつくること。美観を大事にすること。

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                      昭和通り(日本橋)           

 などパリ大改造をイメージするものであったが、これを国家予算でまかなうのは無理であった。そこで区画整理組合方式を採用した。つまり地主が少しずつ土地を提供し、道路や公園を確保、新しい環境資産を手にするという方式である。時間はかかるが、予算は抑えられる。 

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                行幸通り(皇居前)

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                  清洲橋

 シャンゼリゼというわけにはいかなかったが、昭和通り、靖国通り、明治通りなどがつくられた。基本案と違って幅も狭く緑地帯もないが、いまでも東京の基本骨格になっている。また隅田公園、浜町公園、錦糸公園、山下公園などがつくられた。また多くの橋がつくられた。
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                   隅田公園

by yumehonclub | 2016-01-12 11:37

江戸散歩

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