護国寺

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天和元年(1681年)、徳川綱吉は母、桂昌院の願により護国寺の建立を命じた。
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不老門




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本堂

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「15の夜」「I love you」の尾崎豊の葬儀・追悼式には4万人が集まったといわれている。

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創建当時がうかがわれる鐘楼
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明治維新で土地は半分になってしまったが、墓地には山縣有朋、大隈重信、ジョサイア・コンドルらが眠る。

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# by yumehonclub | 2017-07-20 16:03 | Comments(0)

日枝神社

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徳川幕府の庇護のもとに大いに栄えた日枝神社。山王祭りは天下まつりともいわれ、巨大な山車が45台も出たことがあるという。300メートルに及ぶ祭りの列は将軍のいる江戸城内に入り、将軍の上覧に供した。現代も皇居にいく習慣がある。盛大な祭りは一年おき、神田祭と交替で行われる。山車の多くは空襲で失われた。
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太田道灌が江戸城築城の折に川越日枝神社を勧請したのが始まりとつたえられる。
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茅の輪くぐりは覚えのない穢れなどを落とし、身も心も清めるのが目的。8の字を描いてくぐる。
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そして願う。祈る。感謝する。
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# by yumehonclub | 2017-06-30 14:41 | Comments(0)

日本橋魚河岸





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日本橋は江戸の中心、日本各地への距離はここを起点とした。海から昇る朝日を直接見ることができたので日本橋と名付けられたという。

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消費の街江戸は日本各地からたくさんの物資を集めていた。多くは大型船で江戸湊に着き、小型船に積み替えられて日本橋川を上り、両側の河岸の市場に届けられた。魚市場でいえば干物ばかりでなく、鎌倉沖からの生きた魚も届けられた。
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日本橋の隣、江戸橋の両岸は四日市河岸、木更津河岸、その先には行徳河岸といわれる各地からの便があった。市場が並び、倉庫が並べば、たちまち盛り場も出現する。京都、伊勢、近江など地方の大商人たちもこぞって進出した。
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ここは鎧橋、鎧の渡しのあったところ、江戸名所図会にも描かれた。当時、対岸は倉庫街。川は行き交う船で大混雑だ。


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手前が魚河岸、日本橋川には高速船(八挺艪:8人で漕ぐ)が新鮮な魚を運んでくる。周りは倉庫が立ち並ぶ。当時世界一の大都市江戸の台所が日本橋魚河岸を中心とした河岸の流通センターだ。川をつなぐ水路も造った。
江戸の河岸には米、野菜、材木、竹、酒なんでも集まった。酒は灘などの西の都からの下りものが上物、それ以外は下らないものと言われたとか。














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# by yumehonclub | 2017-06-30 11:59 | Comments(0)

校庭の吉野園


 

 花あやめしらしらみゆる田の上をひとつ螢のとひわたるかも 

伊藤左千夫

廣園のあやめの花のはなびらのひとつひとつに風ふきわたる

長塚  節

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昭和15年頃に消えた菖蒲園の一つに吉野園があった。終戦後その場所に四つ木中学校が建てられた。ここに赴任してきた校長はなんとか復興できないものかと校庭の一角に吉野園跡の碑の建立と菖蒲園の再現を試みている。吉野園跡の石碑には吉野園を想う伊藤左千夫と長塚節の短歌が刻まれていた。

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30株、次の年は100株咲かすことができたという。今年もまた美しい花が咲いた。
生徒たちは花菖蒲を育て写生会をするのです。
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# by yumehonclub | 2017-06-13 15:01 | Comments(0)

堀切菖蒲園



歌川国芳、歌川広重らの浮世絵に描かれた葛飾堀切の菖蒲園は名所江戸百景として人気の場所だった。江戸末期は小高園、武蔵園が開園していたが、明治に入ると堀切菖蒲園、吉野園、観花園が加わり、大正期には四つ木園もできた。

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昭和15年頃になると、戦時下の色濃くなり、電気製品の使用禁止(電熱器、冷蔵庫など)、お米の配給(食べたいだけ食べてはいけない)、カタカナ名の禁止(ミス・コロンビアなど)が始まった。花を愛でる風雅の気持ちは押しつぶされ、菖蒲園は次々に廃園に追い込まれていった。

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終戦後、一面の焼け野原の中で唯一復興したのが堀切菖蒲園である。その後東京都に買収され、昭和50年(1975)より葛飾区に移管。今は大いに盛り上がる菖蒲まつりの様子である。

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葛飾堀切のあたりは湿地帯だった。江戸中期に百姓伊左エ門が菖蒲の栽培、改良を始めたのが始まりだと伝えられている。この絵では切り花が包まれている。花を分けてもらうこともできたのだろうか。
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# by yumehonclub | 2017-06-12 17:18 | Comments(0)

江戸散歩


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